神社由緒古記録によると、神社の創祀は神亀元年(七二四年)になるという。神亀元年三月八日の夜半に、三森山(現秋田市千秋公園)という所に突然と神光が飛来した。その光は真昼の如き輝きを発して、山河は動鳴したとされる。近里遠村の人々は強い驚きを感じていたところ、「我は大己貴神(おおなむちのかみ)なり。今ここに一宮を創建し祀らば、国中安泰・諸人守護・五穀豊穣といたさん。」という神勅が下った。そこで人々が神殿を建立し、八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)と味鋤高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)を左右相殿として祀ったのが始まりと伝える。
御璽(みしるし)は影向の時に天降りの磐座をもって社殿に納めたものである。これより三嶽山総社大明神と称して崇敬してきた。源頼朝公が東征後、家臣畠山庄次郎重忠に命じて大嶽山、小嶽山、光明山の三森を神領として広く村落を鎮守し崇敬したとされる。
慶長七年(一六〇二年)に佐竹氏が常陸から国替えにより秋田を知行する際に居城を三森山(神明山ともいう)に定めたため、翌年に川尻郷下浜(したはま)(秋田市楢山川口境)に仮遷座と相成ったのである。下浜の地は低地多湿のために神地としてはふさわしくなかったが、その後久しく元禄七年(一六五九年)に再び川尻上野岱の仮社地へ遷された。ここに社地成就して社殿造営にあたり、本遷宮は宝永四年(一七〇七年)九月六日であった。以来川尻郷一帯(山王・川尻・川口・楢山)の鎮守として現在に至るものである。
近世には藩主佐竹氏が累代の崇敬をいたし社領の寄進も多かった。川尻の地は景観がよく文人墨客の尋来も度々あり、神宝・古記録等の文物も多数収納されていたが、昭和六年の秋田市火事で烏有に帰してしまった。
秋田藩内でも重要な社として、明治には県社に列格されるなど、境内は香雲の霞む森樹に囲まれて、今尚人々の崇敬が篤い神社となっている。